哲学の授業で。

  1. 哲学の授業 11/25から哲学の授業を受けてきた。何故、この授業を受ける気になったかと聞かれれば、単に興味本位だったとしか言えない。先のTLでも記述した通り、写真と哲学は微妙に関わっていることが多い(と個人的に思う)。写真の技術は未熟でも少しでも物事に対しての概念を冷静に見てみて将来の写真テーマの布石になるかと思い受けてみたかったことと、やはり写真を撮りながらも一方で「自分とは何か」と探すことのきっかけだった。
  2. 授業の内容は1 今回はニーチェの「神の死」、ミシェル・フーコー「従順な身体」、哲学者テリダの「聖書のイサクを捧げたアブラハムの話」、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の考証を中心とした授業となった。中身の詳細は割愛するが、それぞれ何故哲学を学ぶのか、哲学書を読み解くのかという理由がまずは大きくある。普段自分達が生活する中での疑問を提示し、それをさらに別方向からの視点で考えていき、真相はどうでそれらが自分達の生活の中でどう結びつくのか(仕事、医学、勉強、趣味、美術、スポーツ、政治)当てはめながら考えていく。なので最初に読み解いていた話の内容が後から全く違う事柄に変わっていくこともしばしばある。ただし哲学のテーマ性からはブレないことがルールであり、過去の誤謬も含めて突き詰めて考えていくことが大切だ。
  3. 授業の内容は2 授業中は教授が哲学のレジュメを読み上げ、それについて解説を行なっていく。たまに「音楽をかけましょう」とバロック音楽やマレーネ・デートリッヒやニーチェ作曲のドイツ語歌など昼食後の13時、15時に聞かせてくるという鬼仕様になっている。まぁ・・寝ろとは言わないのでクールダウンしろということだろう。(そう思っておく)
  4. ニーチェについて 哲学の本格的な考え方についてはわからないが「神は死んだ」というニーチェの言葉は単にキリスト教批判ではなく、神に寄り添うことで同情を得るような生き方はするべきではないとニーチェは言っていた(らしい)。その辺は自分の境遇に当てはめても理解できる。自分の両親はカトリック信者だった。幼い頃から日曜学校へ通わされ、聖書を毎週読むということをしていた気がする。 自分はカトリックを否定するつもりもないが、学ぶにつれてイエスや神に依存する様なカトリックの聖書の教えや信仰が違うと感じる様になった。憐れむという教えはそれだけ人が救えるとは思えない、寧ろ、憐れむという行為自体に人は幸福を覚えるのかと疑問を感じる様になった。だから洗礼は受けなかった。今回ニーチェの同情批判の授業も受けることで自分の考えにも強ち間違いではないと感じたし、ニーチェ哲学の氷山の一角が理解できた気がする。 つまり哲学は流されないための生き方を学ぶことだと理解した。写真で言えば・・カメラを持つ、ファインダーを覗く、シャッターを切る、プリントをする・・・機械の目を通して自分が構図を決めたものをどこまで自分の写真として表現ができるのか。最後のセレクトの段階なのか、最初からなのか、数百枚の写真から選んだ写真にどういう意味を見出したのかなどを考えることかも(それは写真に限らずだけど)。
    と・・昔の20代にも大学で哲学の授業を受けたものの、改めて今の年齢で受けてみると考え方が全く違う。多分、人生経験があったからモノの見方も変わってきたからかもしれない。

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